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絵を描かかない自称ポッポコピー絵師・鵲が闘うことを忘れないために綴る日々の備忘録

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    HTML イズ ふりーだんm!!

    ここのところ想始創愛のあり方をつい考えてしまうテスト前の
    鵲です。

    さてそんな矢先、HTMLについての議論があったので少しばかり考えてみることにした。解けない問題で滅入った気持ちの気晴らしくらいにはなるだろう。その議論とは「HTML の見出しをめぐる議論」というもので、以下のサイトにあった記事の表題そのままであるが許されたい。

    我的春秋: HTML の見出しをめぐる議論
    http://my-chunqiu.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/html_64a8.html

    先週は数日にわたって頭痛がひどくて、意識的に電脳から距離を取るようにしていたんですが、この周辺の話題については、色々な意見が出ていて楽しく拝見してました。 ただ、ひとつ気になったのは、思った以上に多くの方々が、現有の...ないし自分の周辺で目にするモデルの枠内だけで仕様書の内容を捉えてしまっているところ。 ...




     まずは今回の本筋である見出し要素について考えてみたい。見出し要素というものは<h1>から<h6>というタグでマークアップされる言葉で大筋間違いないと思う。(わし自身専門外のことなのでこの表現が正確であるかどうかはわからないが。)Google先生も参考になさるという重要な要素として認識されているが、我々、とくに日本人が書く文書には見出しといえるものが存在していないように感じるものが存在する。おそらくそういった文章に見出し要素をつけるべきかという議論なのだろうという風な認識で考えてみる。

    標準を謳う彼らが標準を理解できているとは限らない。

     HTML規格の標準化を実質的に進めているのはW3Cと呼ばれる組織なのだが、彼らは標準化を進めているが標準とは何かという点において一般的認識からずれている可能性が否めない。
    W3Cに文化の専門家はいるのか?
    W3Cの中の人はというとMITやERCIM(ヨーロッパ情報科学数学研究コンソーシアム)や慶応義塾大学(湘南藤沢キャンパス)などであるらしい。面白いことに文書を専門としているであろう文系組織の絡みが見られない。もともとHTML文書の発祥が理系であり、論文の検索用途であったらしいことやコンピュータ関連の組織であることを思えば、理系組織が中心になってまとめていることに疑問はない。しかし文系組織の絡みがみられないことは現在のHTML文書の普及具合を思えば驚くべきことだとわしは思う。
    トピックセンテンスを持たない文化の存在
    ところで理系の文書、特に論文などは英語で書かなければ世界的に認められないこともあり、完全に欧米文化の文書だと言える。受験期での恐ろしく苦労した記憶がたしかならば欧米文化少なくとも英語文化においてはトピックセンテンスという概念が当たり前であるそうだ。それこそ小学生のころに叩き込まれると言ったレベルでであるそうだ。トピックセンテンスとは簡単に言えば段落・文書の内容を凝縮した一言である。日本人はこういった概念が浸透していない。英語論文をよく読むような人間でさえ、この概念を知ったのは英語論文にふれるようになって10年も経った後だった、という話も聞いたことがあるほどである。おそらく見出し要素はこのトピックセンテンスにあたり、したがって欧米の方の文書には間違いなく見出し要素を見い出せるものと思う。おそらくは無意識のレベルで組み込まれているだろう。しかし日本人にはそれがない。したがって見出し要素をつけるべきかという議論になるのではないだろうか。
    W3Cはすでに不理解を自覚しているように見える。
     このあたりからはかなり憶測が入りこんでいるので恐縮だが、見出しを付けられない文書の存在がXHTMLを生んだ一つの要因になったように思う。W3Cの中の人たちもおバカさんでは当然ない。急速に世界に普及することとなったHTML文書に限界を感じているの事実のように思われる。サンプルをとれば分かることなので、明らかに間違ったマークアップに目を丸くし、嘆いたに違いない。そしてそこに至って初めて彼らは見出しを持たない文化が確かに存在することを知ったのではないだろうか?しかし世はブラウザ戦争の後。ブラウザ独自タグやら解釈の違いなどの戦後処理に追われてしまい、異なった文化への対応が十分にできなかったのではないだろうか?そう考えるとXHTML出現の背景に彼らが対処できない異文化への対応が絡んでいるように思えて来る。つまり、”W3Cだけではどうにもなりませんので、皆さんでお願いします。”という考えがXHTMLに現れているように思えてならない。もっとも、それでもない見出しにマークアップは不可能なわけですがね。

    んじゃ、わしらはどうあるべきなんだいっ?


     先のような経緯がなかったとしても、そういう用途に使えたXHTMLがうまく普及しなかったのは周知の事実で、かと言って見出しのないもの文書のマークアップと言ったって、見出し要素がないこと以外には特にHTMLで過不足があるわけではないと言える。んで、結局どうするよ?という話。
    ぶっちゃけ人間相手にはテキストファイルで十分。

     純粋に文字だけで構成された文書ならばテキストファイルで十分なのだ。人間には確実に伝わる。つまり文書についてマークアップは必須事項ではないということの現れだと言える。
    マークアップはコンピュータとその先の人のために。
     文書として必須ではないマークアップは一体何のためのものだろう?これには二つの意味があるだろう。一つ目はコンピュータのため。純粋に文字だけしかやり取りできないものでは今の文化を支えていくことはできない。文字以外にも画像や音楽なんてのも文書に含まれるようになったが、仮にそういった文字以外のものを挿入する意図でアドレスを記したところでコンピュータには文書も画像のアドレスも音楽のアドレスもそれらに付随する情報もすべて同じに見える。したがってこれでは作成者の意図どおりの内容を利用者に伝えることができない。アドレスがあれば利用者はアクセスできるといえばできるが、コンピュータはあらゆる情報を扱えることが魅力であり、HTML文書最大の魅力はハイパーリンクに他ならない。そうでなければここまでの普及はなかっただろう。ということは、コンピュータに”ここにこのアドレスの画像を挿入する”意図を伝えなければならない。そのためのマークアップであると考えるのが良いだろう。また現在、検索エンジンの存在なしではWEB上のコミュニケーションは成り立たない。検索エンジンもまたコンピュータなので、要求に大して文書をマッチさせていく上で画像であれば画像として取り扱うためには、マークアップは重要な意味を持つはずだ。
    見出し要素も作成者の意図から外れない範囲でコンピュータと利用者を考えてつければ良い。

     マークアップはコンピュータを利用して利用者に意図した情報を伝えるのが目的であることを確認した。では見出しがない文書に見出し要素が必要かどうかは、作成者の意図とコンピュータへの認識や利用者の意図を考えれば良いと思う。従って、見出しが必要ないならば、見出し要素がなくとも良いと思う。ただし、それによってコンピュータはその文章における重要な内容を認識できないので、例えば検索に引っかかりにくくかったり、逆にまったく関係ないキーワードにマッチしてしまったり、意味不明な要訳が作成されるたりする可能性があることを作成者は把握しておかなければならないだろう。何故なら、見出し要素は英文におけるトピックセンテンス即ち文書のエッセンスの一つとしての役割を担っていると考えられるからである。<h1>が複数存在して良いかという点も同じように作成者の自由だと思う。ただし、一つの文書に複数非常に重要な内容があることになるので、もしかするとコンピュータは一つ一つの情報がそこまで重要でないと認識してしまうかもしれない。利用者にしても重要な内容は分割した方が一つ一つの印象が強く残るかもしれない。しかしながらいずれにしても作成者の自由であると言えるだろう。
    作成者がもつ”知られなくとも良い範囲”の利用者を選ぶ権利
     しかしそれではアクセシビティやらに悪影響だと仰る方もいらっしゃるだろうが、全ての作成者が全ての利用者に対して寛容だとは限らない。WEB上にあるものは全て公共物と言った風潮のある昨今ではあるが、知られないことも権利である可能性がある。利用しづらければ人は集まらないわけで、消極的に利用者をふるいにわけられる。もっとも、重要な内容であれば引用されるのは世の常であるのであまり意味がないのかもしれない。
    まぁかなり今のは的外れだったが、タグ付けの選択は言語の選択程度の自由はあるだろう。つまり、そこまで”知られなくとも良い範囲”の選択にはなるだろう。もし真に重要な内容ならば少なくとも国連の公用語は全てそろえるべきだろうが、一つの言語しかない場合は真に他の言語を用意する必要がないということである。他の言語の利用者をふるいわけるわけであるから、「他の言語の利用者は”知られなくとも良い範囲”の利用者」という判断なのだ。

    結局何が言いたいのさ。

     さてつらつらと書き連ねてみたわけだが、結局はマークアップは作成者の自由ということになる。ただし文法は守らなければ、そもそもマークアップとして機能しないわけだから。見出し要素をつけるもつけないも自由だが、それによって意図通り伝わる保証はないということだろう。まぁ、文法から外れない限りは全て作成者にゆだねられていると言って良いんじゃないだろうか?


    追伸
    用語において、厳密には適切でない使われ方をしているものがあるかもしれないが、わし自身適正に理解できているとは言いがたいので、どうかわしの不勉強ということでご容赦願いたい。
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    1. 2007/07/15(日) 23:53:54|
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